坂の上の雲 老舗MAP 「 音 」
杉原楽器店
大正13年創業 「文化の町」松山に響く「匠」の技
習い事人口が全国上位を占める「文化の町」松山
ロープウェイ街に店を構える杉原楽器店 どこで聞いたか定かではないが、なんでも愛媛県―松山市の「習い事」の人口は、全国でもトップクラスに入るという。一週間のうちで、カルチャーにかける時間がかなり多いのだとか。それは城下町の文化が今に残っているためとか諸説あるが、松山市民としては誇らしい話である。そういえば、町のあちこちに俳句ポストが設けられ、句碑が風景の中に溶け込んでいる都市というのは、珍しいものなのかもしれない。
さすが多くの文化人を輩出し、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の舞台ともなった町である。市のシンボルともなっている松山城の麓、ロープウェイ街に店を構える杉原楽器店は、松山文化の要ともいえる老舗だ。
「琴三絃杉原楽器店」と書かれてある大きな看板の下は、古い商家風の佇まいでありながら、店頭に並べられた和装小物がモダンな雰囲気を醸している。
大正13年創業、たどる軌跡は松山の歴史とともに
琴・三絃 杉原楽器店 杉原楽器店の創業は大正13年。近くにある松山東雲高等女学校(現松山東雲中学高等学校校)が、二番町から現在の大街道3丁目に移転してきたのは大正9年のこと。この付近が街らしくなってきたのは、大正も終わり頃からで、それまでは屋敷の塀が長く連なり、竹が茂る寂しい場所だったらしい。いわば現ロープウェイ街の黎明期に杉原商店は店を構えた。初代杉原繁喜智の頃である。当時の店は現在の道を隔てた向かいの筋にあった。
生け花、茶の湯、琴は、嫁入り前の三大「習い事」
店内の一角に職人の方の作業場が 琴・三絃(三味線)を扱うのは単なる商品知識だけではすまない。琴糸の締め替え、三味線の皮の張り替えほか調整やメンテナンスには、専門の高度技術が必要になってくる。二代目杉原智夫は、高校卒業後、琴で2年、三味線に3年、それぞれ福山、大阪で計5年もの間修行を重ねた。そして、昭和41年に34歳の若さで店を継ぐ。東京オリンピックが開催されたのは同39年だから、当時は所得倍増時代の真っ只中。暮らしに余裕が出てきた時代であり「文化的な」裾野も大きく広がってきた。花柳界はもとより「嫁入り前」の習い事として「茶」や「生け花」と並んで「琴」を嗜むものも増えてきた。
昭和50年代にカラオケが登場する以前は、宴会というとお座敷で芸子さんが活躍した。この席に「三味線」は必需品である。最盛時には店の前に行列ができていたという。このカラオケは日本人の宴会のスタイルを一変させたといっても過言ではない。宴会から“芸”は消え、場所は料亭からスナックや一般の店へと移っていった。
全国からアクセスがある杉原楽器店の「匠」の技
匠の技 しかし前述したように、なんといっても松山は「文化」の町。全国的に見ても、琴・三味線・そしてこれらを使った長唄や舞踊人口は上位ランクに位置する。例えば琴の組織として流派の「名取」がいて、その下にそれぞれその弟子さんたちが作る「社中」というグループがある。社中の下にも各弟子さんがいる。余談ながら社中というと坂本龍馬がつくった「亀山社中」を思い出すが、もともと会社組織という意味らしい。
杉原楽器店には現在、3名の専門スタッフが常駐している。そして、それぞれ和楽器のメンテナンスにかけては「匠の技」を有している。これは全国的にも珍しいこと。他の店は、店主が一人で販売し、調整やメンテナンスを手がけているところがほとんどだ。「琴の糸は人間の手でないと締められない。客の好みにより、糸の強さも違う。耳で聞いて糸の強さを測る」という同店の“技”に、ネット時代の今、遠く北海道からもアクセスがあるという。
邦楽会に新風を吹き込む
4代目・篠原正人さん 「文化度」の高い松山とはいえ、10軒近くあった同業者が今は3軒しか残ってないという時代に、これは画期的なことだ。
その理由は、同店の卓越した技術力と、センスのよい経営姿勢との両輪が上手く噛み合ったことにほかならない。また次期四代目は「耳が確か。洋楽ギターの経験は、邦楽会に新風を吹き込んだ」と常連客の覚えもめでたい。
今ではプロを招いての邦楽の定期レッスン、各流派、社中の定期演奏会、おさらい会など店のスケジュール表は賑やかだ。
近年中には、学校の事業に邦楽を取り入れるという明るいニュースもある。
琴や三味線の音色を聴くと、“粋”で“雅”な気分になるのは、日本人ならではの感慨であろうか。