栄吾米って
江戸末期から明治・大正にわたり、米質優良として、松山地方に広く作られたのが「栄吾米(えいごまい)」。
東大栗町の上松栄吾(うえまつえいご)によって、改良され、普及しました。
栄吾は1800年、和気郡(わけごおり)大栗村大上(東大栗町大上)の農業上松利左衛門の子として生まれ、実入りや味のよい米を作ろうと、15歳のころから熱心に稲作改良に取り組んでいたのです。
栄吾米との出会い
1849年8月、栄吾49歳のとき、四国霊場88か所巡礼の途中、土佐国幡多郡宿毛(とさのくにはたごおりすくも:高知県宿毛市)の山間部で、茎が非常に太い一株の稲の変種を発見する。
手に取ってみると、草丈(くさたけ)は長く、茎はしっかりしており、粒の張りもよかったのです。日ごろから品種改良に深い関心を持っていた栄吾は、これこそ弘法大師(こうぼうだいし:空海)さんのお引き合わせであろうと、数穂わけてもらって持ち帰りました。
このことを村の庄屋(しょうや:村落の長)であった河内又次郎に話したところ、又次郎はたいへん喜び、栄吾に自分の持ち田を貸し与え、研究を勧めたのです。
翌1850年の春から試作を始め、工夫に工夫を重ねた結果、茎は丈夫で風雨にも耐えられ、米粒は太く、白くて光沢があっておいしく、つきべりも少ない、いままでにない良質の品種を作り出すことができたのです。
ここに、初の改良米が誕生したのです。庄屋もたいへんな感激ようで、さらに田や労力を提供し、大いに奨励したのです。こうしたことが周辺の農村にも知れわたり、籾種(もみだね)や育て方を求めて、多くの人々が栄吾を訪れたそうです。
その後、愛媛県当局においても、この改良米つまり栄吾米づくりを奨励するようになり、上伊台(かみいだい)村、下伊台村、大栗町の三か村を種村(たねむら)に指定しました。
栄吾米を干す作業を手伝う