坂の上の雲 老舗MAP 「染める」
鷲 屋
「日本」の「美しい技」を、伝え 残す
創業110年、庶民の町で親しまれた染物店
松山市千舟町4丁目 鷲屋染物店 松山市千舟町4丁目、ジュンク堂書店の斜め向かいにある鷲屋染物店。賑わう交差点で信号待ちをしていると、同店創業110周年の表記が目に入ってくる。
「創業は明治33年、西暦でいうと1900年。本当はもっと前から始めていたと思うのですが、キリがいいので、先代の意見も入れてこの年創業ということになりました。少なくともこの年には間違いなく店がありました」と、現当主・古川道郎さん。
もともと、同店は旧魚町通りが発祥の地。今でいう本町と萱町通りの間の通りである。この地域は「お城下」の職人町。明治35年西堀端の札の辻寄りには「勧商場」という今でいうマーケットのような空間が開設された。その勧商場から南に下がると、ワシが翼をいっぱいに広げた鷲屋染物店の金属製の看板が目をひいていたという。
余談ながらこの看板は金属製であるため戦時中に供出された。当時の新聞には「ワシも出征」と賛辞を込めて取りあげられたとか。
個性的な意匠が映える取扱い商品
古川道郎さん 初代古川久平さんが婿入りして店を構えたのが現在の千舟町。創業とされる明治33年のことだ。当時は人々の普段着である藍染めが主流で、染物だけでなく仕立ても手掛けていた。昭和に入ってからは、京染や洗い張りも扱うようになる。また、神社などの「奉納幕」、祭りや売り出しの「のぼり」、学校などの「応援旗」、個人商店の「暖簾(のれん)」「国旗」など、商品の幅は広い。最近では、祭りブームの再来で、「法被(はっぴ)」の注文も増えてきた。全盛時代は店の裏にも作業場があり、多くの職人たちが集まりそれは賑やかだったという。戦後千舟町通りも道が広がり、昭和50年にはワシヤビルを建設した。
日本の心「能」との関わり
松山城薪能のポスター 現在ワシヤビル3階には、能舞台が設置されている。町の中心街のビルの一角に能舞台がある―これは全国的にも珍しいことだ。鷲屋当主の道郎さんはキャリア50年余・日本能楽会会員、大蔵流能楽師としての顔を持つ。
能との関わりは、祖父の久平さんの姉が、松山市のお抱え狂言師に嫁いだことから。松山市の能事情が他の地域と違ったところは、廃藩置県の後、城主の持ち物であった装束の数々を、お抱えの能楽師が譲り受けたことだ。そんなこともあって「お城下」には、衣装をはじめ能文化の「心」が脈々と受け継がれている。
染物にも通じる「日本」の「美しい技」
能舞台の前で 道郎さんが主宰する松山市民狂言会の舞台の開催は年に一度。東京、京都、大阪、名古屋、福岡、金沢など日本の主要都市以外の地方都市で、シテ方、ワキ方、囃子方、狂言方とすべてが揃い「能」が開催できるのは松山だけ。稀有なことだという。他にも松山城薪能や宮島の桃花祭御神能への出演など、道郎さんは能の世界で確固たる位置を築いている。
鷲屋の3階に、今も保管されている100点以上の装束、面の数々。染物にも通じる「日本」の「美しい技」を、残し伝えていってほしいと願う