坂の上の雲 老舗MAP 「 化粧 」
アヅマヤ化粧品店
温和な笑みでお出迎え 鮮やかに時流を読む 銀天街の老舗
お城下、水路で栄えた江戸時代の港町風景
銀天街に店を構えるアヅマヤ化粧品店 明治元年の町制発布によって松山に「湊町」の町名が誕生した。江戸時代には、中之川の豊かな水量を利用して三津から生石町を経て、幾漕もの小舟が荷物を運搬していた。慶長8年(1603年)の松山城の築城後、千舟町辺りにまで代官屋敷が建ち並んだ。こうして城下町が形成されると、この水路の利便性を活かした物流システムによって、界隈の商業がますます盛んになった。一説によると、現在の港町4丁目の近くにも船着き場があったという。そして明治21年に伊予鉄道が開設されたことで、この運河のような風景は消えていった。
温和な笑みと美しい笑顔で お出迎え
笑顔が素敵な3代目の島本創平さんと妻の典子さん アヅマヤ化粧品店は、そんな江戸期以来の商業地である湊町4丁目の角地に店を構えている。3代目の島本創平さんと妻の典子さんが、息子で4代目の展光さんとともに、朝10時から夕方6時まで店頭に出て接客。定休も毎月第2水曜日のみと、かなりハードだが、店内に入ると奥から創平さんが温和な笑みで出迎え、その奥には典子さんが「化粧品店の何よりの説得力」を思わせる美しい笑顔で座して、後方支援に務める。
商売の原点を見つめ、臨機応変に時流をキャッチ
豊富な商品に囲まれた店内 創業は明治22年。初代の島本米太郎さんが小間物や雑貨の店としてスタートしたが、この時は古町での開業だ。時は戦前、万助さんの時代に移ると店は大街道1丁目に移転。それに伴い商売も化粧品店に移行した。その頃は花柳界の日本髪の来客が多く、帯締めや半襟などの和装小物も扱った。
戦時中にかけては、当時「クモ印ビンツケ」などの商品で名を馳せた「天狗屋」の化粧品を扱っていた。大街道から千舟町に移転した後は、2カ所の工場で化粧品などの自家製造もしていた。天狗屋といえば、戦前は全国的に知られたちょっとしたブランドだった。この時期、アヅマヤ化粧品店は、ここから仕入れた商品を客が持参したビンに詰めて量り売りしていた。
焦土に描いた夢への挑戦
常に勉強熱心な典子さん 現在の湊町4丁目で店を開いたのは、終戦後の昭和23年8月のこと。バラックからの再出発だった。戦後すべての価値観が一変するなかで、打って変わってマスコミが化粧品を取り上げ注目されるようになった。創平さんと典子さんが出会ったのは、そんな時代の転換期の頃だった。夫妻は知人の紹介で出会い、久谷の役場に勤めていた典子さんがこの商家に嫁ぐことになった。
そこには、その堅実さで業界に名が知られた姑のシゲ子さんが控えていた。しかし、典子さんは「いい加減ではいけない」と奮い立ち、化粧品の専門店を目指して結婚後まもなく東京のメーカーを訪ねた。先方の便宜もあって、1週間泊まり込みの研修に毎年通い続け、初等から高等まで化粧品についての勉強を続けた。その甲斐あってか、他人には厳しいシゲ子さんが一目置いてくれたという。
常に前に、さらに上へ
店内に以前から置かれている三善の化粧用ブラシ 当初バラックだったアヅマヤ化粧品店の店舗は、アーケード開通の頃には木造に変わり、その後、ひとり息子と一緒にいられるようにと、現在の3階建ての店舗に建て替えた。その願いも叶い、創業以来120余年を数える今も、アヅマヤ化粧品店は親子2代が盤石の態勢で店を守っている。
「土地を買う時は大変だったけど、あとは順風満帆」と典子さんは明るく結んだが、戦中戦後の激動の時代を生き抜いたことを思えば、並大抵ではない前向き思考と言えそうだ。それを裏付けるかのように、かの女子サッカー「なでしこジャパン」が国民栄誉賞の副賞でもらった三善の化粧用ブラシを置いているのは、県内ではこのお店だけ。さすが「機を見るに敏」である。その鮮やかな時流の読みと、機動力が、この老舗の底力の一因には違いない。
「ここは、みんないい方ばっかり」
松山市 大内さん
母と私と娘と、3代続いてお付き合いがあります。戦時中、店が大街道にあった頃のことも記憶に残っています。戦後、物心ついた頃に母に連れられて店に行ったとき、先代のおばあちゃんが森永のキャラメルなどを与えてくれたりするのがとても楽しみでした。きれいでモダンでやさしいおばあちゃんでした。昭和34、35年頃に湊町のお店で帯締めや帯揚げを買ったことも覚えています。
ここは、ご一家、従業員とも、どの方もいい方ばっかり。私の性格としては、他の皆さんのようにいろんな店をウロウロしたくない。「首からすげ替えがきかん店」があることが、私としては有り難い。化粧品を買わずに、グチをこぼして話だけして帰ることもあります。