坂の上の雲 老舗MAP 「 酒 」
雪雀酒造株式会社
北条から世界へ。日本酒の醍醐味が広がっていく。
名づけ親は、犬養毅首相
清酒 雪雀 話せばわかる 日本の昔話には雀がよく登場する。そして彼(?)らは、なべて米好きだ。「雀の酒造り」もまた、そんな雀が竹の切り口に米を蓄えていて、それが自然に発酵して酒になったという話だ。物語の詳細は不明だが、たぶんその酒が親切にしてくれた「おじいさん、おばあさん」に“富”をもたらしたという結末だろう。「めでたしめでたし」なのである。
松山市北条柳原にある「雪雀酒造」の銘は、この昔話にちなんで名づけられた。創業は大正4年(1915年)。初代の猪野嘉次郎氏が、もともと酒造を営んでいた蔵元から買い受けた。創業時の商標は『雀正宗』。当時、政友会の党員であった初代は、政友会総裁で時の首相・犬養毅とも親交があり、首相は本蔵元の酒を好んで飲んだ。そして「雪の白さは、瑞兆。清酒の清らかさは雪の輝きに通じる」ことから『雪雀』と銘打つことを勧めた。願ってもない酒銘である。昭和6年、このようにして「雪雀」が誕生した。
土蔵造りが軒を連ねた大洲藩・柳原
雪雀の蔵と店構え 雪雀酒造がある松山市北条柳原。江戸時代には、河野村柳原であったこの地は大洲藩の飛び地であり、代官所も設けられていた。大洲藩との行き来はもっぱら海路。自然に恵まれた豊かなこの地区は、かつて酒や醤油の醸造、油の製造、木綿の取引が行われ、土蔵造りの店が軒を連ねていたという。今にその姿をとどめる雪雀の蔵と店構えに、道を通る人は思わず目をとめてしまう。建物自体は明治の頃のものだとされる佇まいは、まさに老舗中の老舗の風格だ。
名工・田窪幸次郎氏との出会い
雪雀の酒蔵の中 昭和40年、2代目社長・猪野洋平氏が雪雀株式会社として名称を変更する。次いで同41年には猪野字朗が3代目に就任。急きょ跡を継ぐことになった3代目は東京在住で、2級酒全盛であった当時に、特級酒しか飲んだことのない美食家だった。それゆえ、帰郷後の彼は何より高級酒にこだわった。就任後は大吟醸、純米酒へとシフトしていく。昭和50年代からは、ほとんど毎年のように全国新酒鑑評会において最高位の金賞を受賞。この功績の陰には、「雪雀」の顔ともいえる杜氏・田窪幸次郎氏との出会いが大きい。
酒造りは良質の「水」と「米」と杜氏の「技」が揃って初めて“旨い酒”が生まれる。雪雀の場合、水は高縄山の伏流水、米は酒造好適米の最高峰・山田錦や地元米の松山三井、そして田窪氏だ。後年彼は、卓越した酒造技能者として労働大臣賞を受け「日本の名工」にも選ばれた。愛媛県の酒造関係者で「名工」に選ばれたのは初めてという快挙。平成16年には、黄綬褒章の栄誉も賜る。こうして名工を得た雪雀は、全国に名を馳せる蔵元となっていく。
時代に先駆けたセンスある経営戦略
話せばわかる清酒 雪雀の営業戦略は、味に劣らず先進的で上質だ。記憶に残っている人も多いと思うが、同社の商品のひとつに昭和63年に発売した「話せばわかる」という酒がある。「雪雀」の名付け親・犬養毅首相の名言にちなんだ商品名とはいえ、なんとも斬新なネーミングである。その酒銘ゆえに、この商品は1年の販売見込みが3カ月で完売してしまった。
そして現代、酒を飲む形態もライフスタイルも変わってきた。サイズも一升瓶より、冷蔵庫に入る中瓶から小瓶。女性ファンも増えてきた。熱燗よりも冷酒が好まれる。酒の購入先はスーパーマーケットが主流だという。
北条から世界へ。日本酒の醍醐味が広がっていく。
4代目・猪野敏朗氏 そんな中、幼いころから酒を知り尽くした4代目・猪野敏朗氏は提案する。例えば、悪酔いを防ぐために、ロックのように水と一緒に酒を嗜む。もっとも良質の酒ならば悪酔いなどはしないものだが。この一緒にいただく水は「やわらぎ水」と呼ぶ。
日本酒は、春はしぼりたて、、夏は生貯蔵、秋は生しぼり、冬は燗酒と四季折々楽しめる酒だ。思えば、世界中でも日本酒は、温めて美味しい数少ない酒かもしれない。4代目は、熱燗より、ぬる燗がお勧めだとか。またフランス料理とも相性がいいらしい。
「飲んだ瞬間『旨いっ!』と言ってくれる人が、どんどん増えていってくれたらと思っています。まず、地元の方に飲んでいただけるもの。その延長に全国があり、世界があれば理想的」と語ってくれた4代目。毎年生まれる新酒のように、時代に醸された味が楽しみな雪雀の商品群である。