坂の上の雲 老舗MAP 写真
高橋写真舘
一線でカメラに向かう凄腕女性社長
今を撮り損じているのでは
二代目を継ぐ高橋越子氏 松山市の湊町と大街道の歩行者専用道路が交差する千舟町通りを西へ50m程下った左角に、板チョコレートを白いパッケージで包んだ姿にも見える6階建てビルがある。今のシニア世代は、青春時代に入口横に飾ってある写真を見て、自分もこの店のプロカメラマンに写真を撮ってもらい記念に残しておきたいと思ったものだ。写真はたくさんあっても気に入ったこれという1枚がない。じいちゃん、ばあちゃん、子、孫、家族全員で撮っておきたい……と、憧れた老舗の高橋写真舘本社である。
現在の社長は、二代目を継ぐ高橋越子氏。黒いスーツがよく似合う、やさしい笑顔の方である。2011年、78歳を迎える。
創業からの歴史については、松山の老舗本より紹介しながら、現在の写真舘の様子、今後の抱負を 越子社長に伺った。開口一番、厳しい業界とのご返事。デジタル化で今では誰でも写真が撮れる時代、特に若い人はいつでも撮れると思って今を撮り損じているのでは…とさすがにプロの見る目は敏感であった。
高橋写真舘の歴史
高橋写真舘 創業は大正13年、二番町(現在の三越敷地内)にて営業を開始する。初代社長は、伊予市出身で絵や写真が好きだった高橋憲一氏。今は県内有数の規模と実績を誇る写真舘として有名であるが、創業当時は、接客も写真を撮るのも社長自らが行い、数人の弟子を置く程度の小さな写真舘としてのスタートだった。
しかし、当時は「写真は写真舘で撮るもの」という時代。1枚がかなり高く、儲けも大きい仕事で、お客様は結婚、お宮参り、七五三、入学、卒業、お見合いのほか、昇進記念に来店される軍人さんも多かったと、当時のことを越子社長は先代から聞いているそうだ。加えて憲一氏の写真の腕が評判を呼んで、店は次第に手狭になって昭和8年、勝山町に店舗を移転する。当時では、珍しい木造4階建てのビルを新築し、かなり高層の建物として異彩を放っていた。しかしながら、このビルも第二次世界大戦の戦火に遭い、昭和20年、灰燼に帰してしまう。
「レンズは写真の命」
先代は「レンズは写真の命」との思いで商売道具を守るべく運び出し、危うく消失は免れた。しかし、戦争が終わってしばらくは材料不足のため写真舘は再開できず、代わりに喫茶店(銀天街「コンドル」)を開いたそうである。それが結構繁盛したので、いっそのこと喫茶店に転業しようかという話も出たが、写真の道は捨てられず、昭和22年に松山のメインストリートである大街道に進出して再開する。後に子息の亮氏も経営に参画。亮氏は終戦後、検察庁という写真とは全く畑の違う職場に勤務していたが、憲一氏の跡を継ぐため写真の道へ入り親子でカメラに向かっていた。ところが、昭和40年代に入って三度目の転機が訪れる。大街道が毎週日曜日に歩行者天国となり、車両は全面通行止めとなる。日曜日の稼ぎ時にお客様が車で来店できないというダメージは大きかった。そこで昭和48年、現在の千舟町三丁目に移転し4度目のスタートをきることになる。
二度と時間は戻らない。今を大切に良いもの作りに努めていく。
カメラに向かう高橋越子氏 その後、昭和54年、写真の何たるかを伝授し、越子氏の心の支えとなっていたご主人亮氏が逝去。59年には初代社長・憲一氏も故人となり越子氏は高橋写真舘の看板を背負って立つこととなった。2人のご子息も写真館の両腕になり、長男の専務はアメリカで習得した写真技術を生かし神戸支店を、次男は郊外に子供から大人までの衣装を取りそろえたスタジオを持ち、越子氏を支えている。また、先代の育てたベテランカメラマンを含めた全社員が同じ目標に向かって、一丸となって走っている。その目標とは「過ぎた日は取り戻せない、今を大切に残したい人のために満足感を与えたい」であり、今日もカメラに向かって記念の1枚を撮っている。これからも「坂の上の雲を目指して、ますます自分を磨いていきたい」と抱負を謙虚におっしゃる姿から、大老舗としての風格が十分に伝わってきた取材であった。
<創業からの歴史>
高橋写真舘大正13年 松山市二番町(現・三越敷地内)に創設
昭和8年 勝山町(現・電車通り)に移転
20年 戦災にて焼失
22年 大街道一丁目に移転・再営業
26年(有)高橋写真舘を設立
48年 千舟町三丁目に6階建ての新館を建築・現在に至る
笑顔を伝える高橋越子氏きめ細かなところまでいいですかぁ
インフォメーション
(有)高橋写真舘
TEL:089-941-1257
住所:愛媛県松山市千舟町三丁目1の7
営業時間 10時~18時
年中無休