坂の上の雲 老舗MAP 「住む」
有限会社 樋口畳店
畳一筋に歩む
松山城築城のころから“府中の畳屋さん”
松山市木屋町にある樋口畳店 創業は、実に356年前に遡る。松山城が築城されたとき、三重県・桑名から、刀、鍛冶、畳など多くの職人方の一人として松山に移ってきた。所在地はかつて、畳町と呼ばれていたが、府中町、木屋町と名を変え現在にいたっている。
初代は、金子屋治左エ門。城下町府中の畳屋さんとして、江戸、明治、大正、昭和、平成と、環境の大きな変遷のなか、畳一筋に歩んできた。12代目となる樋口武さんは30年前に後を継いだ。武さんに話を伺った。
40代で畳の手縫いを勉強、12代目を継ぐ
12代目 樋口武さん 「40代まで、サービス業界にいた。そのころ、父親の代理で組合の総会に出ると、“もう、親父と交代じゃ。技能工の資格を取っておけ”と組合の役員に促され、とりあえず2カ月間、毎晩、畳の手縫いを勉強した」と、当時を振り返る。
今も、畳の敷きこみに使っている前掛けには、「松山市府中町二 電六四八 (有)樋口恒徳商店」と記されている。「恒徳」は、実父の名である。当時、名前を店名に入れるのが流行っていたが、平成18年、創業350周年を迎えたのを機に現店名に変更した。
職人20人が寝泊まりしていた時代も
樋口畳店の仕事場 武さんが大切そうに広げた写真のコピーには、先代を囲んで、若い職人20人近くが収まっている。戦後間もない昭和30年ごろの写真だ。「仕事もなく、食べ物も不自由な時代。みんな2階に寝泊まりしていた」。賑やかだったころの思い出である。
昭和50年代ごろまでは、建築ブームで畳の需要も多く、フル操業だった。最終検査に間に合わせるため、公営住宅24戸300枚の畳を未明までかかって敷き詰め、そのまま寝ずに検査を受けたという修羅場もあった。特に厳冬期、板間は足の裏から凍えてくる。午後11時ごろから検査に立ち会ったが、午前2時を回ると、担当者のほうが先に根を上げ、「お宅がよろしいなら、このへんで」。厳しくもあったが、今思えば懐かしい。
建築様式が変化、住宅の畳の間取りは減少
畳と樋口武さん 以前は、畳床は藁で作っていた。稲刈りの時期には、旧・小田町、旧・面河村あたりまで取りに行っていたが、現在では、発泡スチロールなどのボードが使われている。畳表も「い草」が国内で生産されなくなり、20数年前からは中国より輸入されている。建築様式も変わり、住宅の畳の間取りも年々、減少の傾向にある。
昭和50年ごろまで、10数人いた職人は、独立したり転職したりで店を去り、現在は70歳の職人と事務方を切り盛りする奥さんとの3人である。武さん自ら、現場へ出向いて寸法取りから、畳の引き取り、敷きこみまで、職人さんと共同でする作業も少なくない。
「自分に納得できる仕事を続ける」ことが信用築く
12代目 樋口武さん 350年を超える「暖簾」の重みを尋ねると、「暖簾で飯は食えない」と笑って多くを語らないが、奥さんが横から「仕事が気に入らないと、納得いくまでやり直す。それにお客さんも付いてくれて…。信頼されることが一番」とサポート。
「これまで高額な設備投資もしてきて、畳を仕上げる作業は合理化されたが、高齢化も進み、お客様の所へ畳を受け取りにいき、仕上げた畳を敷きこむのが大仕事。長年のお客様を大切に、地道にやっています」。
心の中では子息による後継を願っているのだろうが、それは、自然体に任せている様子。その日まで、代々培われてきた店の伝統を粛々と継続させていこうという店主の強いポリシーが伝わってきた。