坂の上の雲 老舗MAP 食べる編 元祖松の露 三好
元祖松の露 三好
食べ始めると「止まらない」松山名品は“通”好み
ブラジル・サンパウロで人気だった「日本人のピーナツ豆」
初代・三好唯一さんの写真 松山には洋行帰りの豆菓子がある。異国から伝わってきたのではない。松山から外国へ持ち込み、再び帰ってきた。その名は「松の露」。現地名は「ミンドウィン・ジャポネーズ」―ポルトガル語で日本人のピーナツ豆を意味する。
松山市本町通りから一本西側寄り、平和通りの北にある「元祖松の露」。現当主は三好壽恵子さん86歳。創業は大正6年、初代・三好唯一さんが考案した菓子である。菓子といっても甘くはない。ビーナツを醤油味の煎餅でくるんだものといえばいいのだろうか。買っていく人の中には、ビールのつまみや、お茶漬けで食べる人もいるという。
創業当初は松山で製造・卸販売を行い、売り上げも順調だった。昭和2年、三好さんは好調だった店を妹夫婦に任せ、突然、ブラジル・サンパウロに移住する。生まれて間もない娘―後に2代目を継ぐこととなる壽恵子さんも同行した。移住地で「松の露」を販売したところ、これが現地人に大人気。面白いように売れたという。前述の「ミンドウィン・ジャポネーズ」である。
サンパウロに住むこと約10年。一家は壽恵子さんが小学校4年生の時に帰国する。行きはスエズ運河を回り、帰りはパナマ運河を抜け、なんとこの時代に地球一周したことになる。一家が「なぜブラジルに渡り」「なぜ帰国した」のか。「松の露」の名前の由来は? 当初まさか自分が家業を継ぐとは思っていなかった壽恵子さんは、父の意向を知る由もない。「その頃は店について、何も考えたことがなくて」とおっとりとした口調で語ってくれる。私たちは、店に残る仕立てのいいスーツを着こなす凛とした初代の写真を見て、さまざまに想像を膨らませる。
松山大街道一丁目で製造販売
本町4丁目にある現在のお店 帰国直後の昭和12年、松山市大街道1丁目において「ヒコウキ堂」の屋号で店を構える。当時は大街道でもこの辺りが最も賑わっていた。同店は仕入れた菓子類をセリ箱に入れ、何十種類も店頭売りをしていた。量り売りで、商品は客の要望により、必要なだけ紙袋に入れる。その中でひときわ大きなガラスの陳列箱には「松の露」があった。これは店裏の工場で製造。今でいうオリジナルの人気商品だった。なかには、昼休みに日参する熱烈ファンもいたという。
その後、国内は戦時体制になった。太平洋戦争の末期、昭和20年7月の松山空襲。松山は焼け野が原となった。「飛行機屋」のあった大街道も大きな被害を受ける。当時、壽恵子さんは呉の海軍工廠(かいぐんこうしょう)へ、妹さんは関西地方でそれぞれ学徒動員されており、かろうじて空襲被害を免れた。しかし、松山の住む家も店もすべてが灰となってしまう。
「門前の小僧」が引き継ぐ伝統の味
現当主の三好壽恵子さん 親戚の家に身を寄せていた一家は、やがて中の川(北立花町)で「松の露」の製造を再開。地元の農家に材料の落花生(ピーナツ)を分けてもらい、復興に向けて少しずつ歩みを進めていく。
昭和34年、長年連れ添ってきた妻を亡くした初代唯一さんを支えて、壽恵子さんは「松の露」の製造に携わるようになる。「門前の小僧」で、見よう見まねの作業だった。最初の頃は商品として使えないものも多かったという。母の後を追うように逝った父を見送った昭和35年、現在の本町に移ってきた。
食べ始めると「止まらない」松山名品は“通”好み
三種類ある松の露 狭いガラス戸を開けて店に入ると、目の前のケースに並ぶ商品は三種類。醤油味の松の露、砂糖をまぶしたもの、小ぶりの松の露の3つである。作り方は千葉産ピーナツを使い、これに砂糖と小麦粉を混ぜた衣をかける。カタチが整ったところで、網に乗せ、回転させながら、じっくりと煎りあげる。冷めないうちに醤油を絡める。この煎り具合、醤油の絡めるタイミングが難しい。作業は朝5時から始まる。
類似品も出回っているが「違いがわかる人」は知っている。“通”は「元祖松の露」でないとダメらしい。中には、一日に20~30個買っていく人もいるという。
「坂の上の雲」のまち松山・観光まちづくり事業の「まち歩き」コースにも組み込まれ、ときたまガイドに案内された観光客も訪れる。こじんまりした店ながら、客足が絶えることがないのに驚かされる。
そしてその「松の露」。食べ始めると止まらない。香ばしい醤油味もいいが、砂糖まぶしも捨てがたい。「クセになる味」とは、このことだ。