坂の上の雲 老舗MAP 食べる編 「おやき」
お食事処 みよし
四国の心がこもった素朴な味。「おやき」
石手寺にお詣りしたら、お土産は「おやき」
石手寺の見えるお食事処 みよし 四国八十八ヶ所霊場五十一番札所・石手寺。「菩提の道場」伊予の国にあって、名刹という名にふさわしい寺院である。境内は国宝をはじめ、県・市指定の重要文化財の宝庫。また、寺名ともなった四国遍路の祖・衛門三郎の逸話はあまりにも有名だ。さらに当寺は、かの正岡子規の吟行コースでもあったとかで「石手寺へ まはれば春の 日暮れたり」「石手寺や ここも日永の 婆ばかり」など多くの句を残している。
お食事処 みよし 正面 道後温泉に近いこともあり、観光客が絶えない石手寺には「お詣り」の他にもう一つの楽しみがある。それは門前で売られている「おやき」。これはいわゆる「焼きもち」で、餅といっても皮は薄く中に餡が入ったもの。その皮と餡のバランスが実に絶妙。形は平たく、焼いた皮には焼印が押されている。その皮が香ばしく、なんとも言えず素朴な味わい。松山人にとって「石手にお詣りに来たら、帰りにおやき」という人も少なくない。かの高浜虚子も小説『伊予の湯』の中で、主人公の婦人が「門前の茶店でお焼きという焼き餅を買った」と記述している。
お接待の風習が生んだ、真心こもった素朴な味。
鉄板の上のおやき 「おやき」はもともと、お遍路さんの「お接待」から生まれた。余談であるが、この「お接待」は、四国で始めて遍路をした人なら大いに感動するという。四国ではお遍路さんは「お大師様(弘法大師)と同じ」「仏様と同じ」で、巡拝の道々で果物やお菓子などでもてなす。善根宿といって無料の宿泊施設もある。それも裕福な人たちがそうするのでなく、貧富には関係なく「真心」を込めてお遍路さんの無事結願を祈る。
お茶を添えて かつては7軒ほどあった「おやき」の店も、今は3軒残るのみ。中でも石手寺前の「お食事処 みよし」は一番の老舗。創業は明治2年で、初代三好イトさんが「お袖お婆さん」から教わったと聞く。それを遍路の人たちにお茶に添えて売り出したところ「お大師様のおやきを食べ、お詣りしたらおかげをいただいた」との噂になった。これが、またたく間に広がり、石手寺の名物になったという。
当時は、今と違って餅を作るのも重労働。米を洗いそれを干し、石臼で米粉にする。これは夜なべの作業だったという。粉を買えばよさそうなものだが「何が入っているかわからない」と、決して妥協を許さなかったそうだ。いい米を使うと「ねばりがあって、滑らかで美味しい」仕上がりになるのだとか。もちろん餡は小豆から炊く。おやきにはヨモギ入りがあるが、昔は近隣の山にヨモギを取りにいき、包丁でたたいて中にいれた。そして朝になると一日中座って餅を焼く。
おやきを焼く様子 大正・昭和と戦前までは全盛時代で、石手寺から道後温泉までの道筋には「おやき」の店が軒を連ねていた。
やがて日本が第二次世界大戦に突入すると、釜も餅を焼く鉄板・コテ類もすべて没収。甘いものなどもってのほか。「おやき」は空白の時を迎えることになる。
時代が変わっても伝えていきたい「四国の心」
できたてのおやき そして戦後。「いつまでもおやきがないのは、お詣りに来ても寂しい」と、道後ふなや旅館の主が立ち上がり、ロータリークラブの会員向けに「おやき」の実演を企画。石手寺の境内・仁王門の元で久しぶりに焼いた。これが好評で「やはりおやきは続けるべきだ」との声があがり、統制が緩むと復活することになった。鉄鋼所に頼み、釜や鉄板もあつらえた。
四代目・三好智佐子さん 四代目・三好智佐子さんが「おやき」を焼くようになったのは昭和37年に嫁いできた時から。当時もまだマキを使っていたため、火加減に苦労したという。餡を炊く時に砂糖を多く入れれば入れるほど、長時間混ぜ続けなければならない。先代から受け継いだ味を頑なに守り通している。今はガスを使っているが、小さな鉄板は火加減が難しいため、数によって調整しなければならない。「長年のカン」が“百年の味”を伝承している。
「同行二人」。お大師様と共に“何か”を見つける旅、“何か”を捨てる旅。そんな四国遍路も、近年では目的もスタイルも大きく変わってきた。「観光遍路」という言葉さえ生まれてきた。しかし、変わらない、いや変わってほしくないものも多くある。四国人が育んできた「お接待の心」。石手寺前の「おやき」の味もその一つだ。
「女優の杉村春子さんが愛した味」
松山市 T.O.さん(57歳)
生前父は演劇を通じて女優の杉村春子さんと面識がありました。昭和40年頃、『荷車の唄』の舞台で入松されたときには、妹が子役で舞台に立ったこともありました。その妹の芝居を杉村さんに誉められ、妹より父の方が嬉しそうだったのを覚えています。そんなお付き合いのなかで、杉村春子さんはお茶うけに出したおやきをとても気に入ったようです。以来父は、普段はあまり買い物好きではなかった人でしたが、杉村さんが松山にいらっしゃるときは、いそいそと自分でおやきを買いに行き、杉村さんはおやきが好きで喜んでくれると、ほんとに嬉しそうに話していました。確か、その話も何度か聞いたような気がします。ふたりとも逝ってしまいましたが、いまでもおやきを食べると、ふたりでおやきを食べながら無邪気に笑っていた姿が見えるようで、当時のことを思い出しながらわたしもふっと笑顔になってしまいます。